オルガンの調べ
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 誰にだって、けして忘れられない大切な瞬間や景色というのが、きっとあるはずだ。
 胸の奥に鮮明に焼き付き、いつまでもずっと色褪せない場面。
 目を閉じればすぐに思い起こせる〈心の故郷〉とでも呼ぶべき映像があるだろう。
 〈現在〉に疲れたり〈未来〉に怯えたりした時、魂を癒すために還る場所。
 わたしにとってのそこは、〈幼稚園〉だ。
 わたしがわたしであるための核を作り育んでくれた場所。
 あの時代がなければ、わたしはきっと今のわたしではない。
 だから、わたしの心の故郷はあの幼稚園だ。
 
 なかでも強く印象に残っている場面は、初めてそこを訪れたときのものだ。
 太陽がとても眩しかったイメージがあるので、たぶん夏のよく晴れた日だったと思う。
 サファイア色に輝く空のあちらこちらに寝そべるコットンホワイトの雲。
 そしてその建物は、きれいなライム色だった。
 母に手を引かれたわたしは、その場所を一目見ただけでなぜか胸が弾んだのを覚えている。
 
 母と2人の新しい生活を始めるために移り住んだ海辺の町。
 ひどく臆病で人見知りだったわたしは、見知らぬ場所での暮らしが始まることに怯えていた。
 引越しをするのをとても嫌がって、移ってきた後もずっと黙り込んでいたり、急に泣き叫んだりすることもある不安で辛い日々が続いていた。
「あの人が変に甘やかせたから、わがままになっちゃって、もう」
 母はよくそう言ってため息をもらしていた。
 互いに激しく罵倒しあって別れた両親。人と人とが愛し合うことのすばらしさを教えてもらうことができないでいたわたしは、心に硬く重い鎧を纏うようになっていた。

 ゆるやかな丘を登った先にあるその幼稚園は、お世辞にも立派とは呼べないけれどとても素朴な温かみがあって、わたしはその場所を一瞬で大好きになってしまった。
 建物のすぐ脇には、わたしがこれまでに見たこともないような大きくて立派な樹が枝を思いっきり広げていて、その木漏れ日がきらきらと笑っていた。
 優しい緑色の扉の前には、少し錆びた赤いゲート。
 扉の向こうから、オルガンの音色がこぼれている。
 かすかに聴こえるその柔らかなメロディーは、すーっとわたしの胸の奥の方まで染み入ってきて、砂のように乾ききっていた魂をゆっくりと潤し始めた。
 オルガンの調べに、子供たちの歌声が重なる。
 ありふれた童謡で歌も演奏も拙かったはずなのに、わたしはその音色に激しく胸を揺さぶられた。
 心のどこかでずっと求め続け、それでもどうしても手に入れられなかったものを突然、手渡されたような感じだろうか。あまりにも嬉しすぎて戸惑ってしまう。
 気持ちが、溢れた。 
 そして気が付くと、わたしの頬は濡れていた‥‥。
「なにしてるの! 行くわよ」
 母に強く手を引かれて、わたしは目をこすりながらそれに従った。

 扉を開けて入ると、オルガンの音がようやくはっきりと聴こえた。
 初めて耳にするはずなのに、なぜか懐かしさで胸がいっぱいになる。
 やがてわたしたちに気付いて演奏は止まり、女の人が微笑んで立ち上がった。
 母がその人に、わたしを入園させたいのだと告げると、彼女は笑顔で大きくうなずいた。
「そうですか、大歓迎しますよ。わたくしはベアトリックス・ギュンターと申します。それでは、そこで少しだけ待っていただけますか」 

 女の人は、園長と思われる男の人を連れて戻ってきた。
 園長はとても背の高い人だった。
 彼は母と握手を交わし、さらにわたしの前にもしゃがんで手を差し出す。
 わたしはとまどいながらも、その大きな手を握り返した。とても温かかった。
 ひどい人見知りなわたしだったのに不思議とぜんぜん怖さは感じないで、その人の満面の笑顔につられて思わず微笑んでいた。
「はじめまして、マーク・ギュンターです。お嬢ちゃんのお名前は?」
「ケイ‥ティー‥‥」
「ホープ・ガーデンへようこそ、ケイティー! ここはもうきみの家だと思っていいんだよ。さあおいで、きみの兄弟たちを紹介しよう」

 子供たちは全部で7人いた。体格や顔つきも、髪や目の色もさまざまだ。
 二ック、リタ、バーニー、ファーレン‥‥やがて私の大親友になる子供たちだった。
「ねー、もっと、お歌しよーよ!」
 そんなマイペースなジャネットに他の子も続いて、たちまち自己紹介どころでなくなってしまう。
「そうね。じゃあ、ケイティーも一緒に歌おう!」
 女の人がオルガンの前に座ってその指が動き出した途端、再びあの不思議な音色が踊り始めてわたしを素敵な色で包み込む。
 まるっきり魔法だった。
 かなり古ぼけてはいるが、ありふれたオルガンのようにみえる。
 しかし、そこから流れ出す音は特別だった。
 その響きはまるで命を持った風のようでもあり、とても温かい光のようだった。希望というイメージを旋律が伝えて、生きる喜びを和音が謳いあげる。世界もわたしも甘いピンク色に染まってしまったような気分だった。
 そんな心地良い波に揺られていると、急にわき腹を突かれて我に返る。
「ほら、おまえも歌えよ!」
 わたしよりも背は低いのに、とても生意気そうな丸い目をした男の子だった。
 わたしはくやしくてその子をにらんだが、彼はにっこりと微笑む。
「この歌、知らないの?」
「知ってる‥けど‥‥」
「じゃ、歌お! ほら!」
 人前で歌ったことなどなかったわたしだったが、勢いにつられて歌い始めた。
 隣りの男の子が白い歯と立てた親指を見せる。それから何百回となく目にし、その度にわたしをいつも勇気付けてくれたニックのお得意のポーズだった。
 みんな、本当に楽しそうに歌っている。
 最初はささやくようだったわたしの声も次第に大きくなっていき、やがて気がつくとわたしはみんなと一緒になって大合唱していた。
 とてつもなく気持ちがよかった。
 その瞬間、これまでずっとずっとわたしを覆っていた固い殻が砕けて全部剥がれ落ちて、初めて世界の温度を肌で感じたような気がした。
 その時の感動は生涯忘れられない。

 これまでの30年近くの人生で、わたしは数多くの人たちと出会って、さまざまな経験をしてきた。しかし、人として本当に大切なことのほとんどは、あの幼稚園時代に学んだ気がする。
 まるで実の娘として以上にわたしを強く愛してくれたギュンター夫妻。時に厳しくもあり果てしなく優しかったマークとベティー。 
 人生の真実を教えてくれた、真っ直ぐな人たち。その純粋な魂。深い愛情。
 彼らには、どれだけ感謝しようとまるで足りない。


 そして今日、わたしは久しぶりにまた、このライム色の扉の前に立っている。
 白いドレスに包まれたわたしの手を引くのは、マーク園長だ。
 彼の影響もあって特定の神を信じていないわたしは、式を挙げるにはここしかないと思っていて、園長もそれを快諾してくれた。神などにではなく、友人たちに、自分自身の心に誓えばいいのだと言ってもらった。
「きれいだよ、ケイティー。本当におめでとう」
 髪こそ少し薄くなったもののまだ背筋の伸びた姿。その変わらない優しい横顔を見つめるだけで胸がいっぱいになる。
「さあ行こう。みんながお待ちかねだよ」

 園長の年輪を刻んだ手が、緑の扉を開く。
 その瞬間、弾けるような拍手とたくさんの笑顔がわたしたちを迎えた。
 オルガンの響きは、祝福の歌を高らかに歌い上げている。
 魔法はすっかり健在だ。
 その柔らかい音色とみんなの暖かい言葉に包まれると、溢れるような喜びが心の中をいっぱいに充たしていく。それはガスのようにわたしの中に詰まって膨らんで、体まで宙に浮かび上がりそうになってしまう。
 
 ベティーさんもお元気そうで本当によかった。
 お祝いに駆けつけてくれた、多くの友人たち。
 そして懐かしい兄弟たちの間を抜け、ゆっくりと歩いていく。
 みんな、ありがとう。
 女手だけでわたしを今日まで懸命に育ててくれた母。その涙まじりの顔にそっと手を合わせる。
 ありがとう。
 わたしの手を引いて進む、わたしに愛と真実を教えてくれた恩人。
 ありがとう。
 そして、わたしを待ってくれている愛する人。
 ありがとう。

 すべての人に、心から‥‥ありがとう。
 生きてきて、生まれてきて、よかったよ。
 
 これからの人生を伴に歩む愛する人のもとへと、わたしは歩いていく。
 オルガンの調べとみんなの笑顔が、世界を黄金色に染め上げている。
 きっと今日のこの景色も、わたしの心に鮮やかに焼き付くだろう‥‥。


                                              〈Kindergurden〉



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by seikiabe | 2007-06-27 01:44 | ショートショート


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